震災特集 熊本地震ルポ/上 益城町で 見通せない暮らし

震災特集 熊本地震ルポ/上 益城町で 見通せない暮らし
(毎日新聞 2016年6月19日)

 熊本地震の本震(4月16日)から約2カ月。被災地に住んでいた視覚障害者たちは今、どのような生活をしているのか、困っていることは何か。現地の様子を知りたいと、5月下旬に佐木理人記者(全盲)と2日間、熊本を訪ねた。まず、被害が最も大きかった益城町(ましきまち)から報告する。

 伊丹空港をたち、熊本空港(益城町)へ着陸直前のこと。飛行機の窓から見下ろす街は青かった。壊れた屋根を覆うビニールシートの色だ。シートがかたまっている場所は、地面に大きなアジサイの花が咲いたように見えた。東日本大震災の被災地に取材で入ったときに見た、津波で何もかもが流されてしまった東北の被災地と比べて、よりはっきりと、そこに最近まで人が暮らしていたのだと思えた。

 午前9時すぎ。空港内は、閉鎖されている場所が多いせいか、ロビーが混み合っていた。レストランも閉まっていた。

 「次がいつ起きるか分からない」。土産物店の店員の表情が硬い。その店の近くの壁はひび割れ、天井の板がたわんでいた。客足は少しずつ戻ってきたが、手早く買って帰る人が多いという。

 避難所となっている益城町の総合体育館に行った。着いたとき、「おや」と思った。1000人を超す人が避難していると聞いていたわりに、静かだ。駐車場も閑散としている。「自衛隊やボランティアの人も減ったし、昼は自宅に戻る人が多いみたい」と、避難している大西光さん(72、弱視)が白杖(はくじょう)を手に教えてくれた。

 大西さんは緑内障で右目が見えず、左目は針の穴ほどの視野しかない。震災前は、木造2階建ての家に1人で住んでいた。4月14日に自宅は全壊した。

 体育館で過ごす大西さんのスペースは−−。高さ約1・5メートルの段ボールで間仕切りをし、広さは2畳ほど。段ボールのベッドや折り畳み式の机を置いている。体育館の入り口から約10メートルのところに位置し、目印になるようにと入り口からベッド脇まで、幅4センチの白いビニールテープを貼ってもらったという。テープが白色なのは、床が黒色だからだ。館内のトイレは使えるし、着替えは知り合いが洗濯をして届けてくれる。週に何日かは別の避難者が運転する車で、熊本市内の温泉施設を利用する。想像していたより、衛生的に暮らせていると思った。

 「震災前はもっと見えたのになあ」。張り紙を指さす大西さんの手が、読める大きさの文字を探して宙をさまよう。「2、3日前から視力が低下し、足元も見えにくくなったんだ」。あまり明るくないところで、外出も減り、パソコンを見ることばかりしているためだろうか。「だめか」と大西さんがつぶやいた。

 「生野菜や温かいものが食べたい」。朝はおにぎり、昼は菓子パンが1個ずつ、夜はコンビニのお弁当などを食べている。これらは避難所の職員が届けてくれる。でも、炊き出しで配られている豚汁やうどんなどは食べていない。自分で配給の列に並べばもらえるが「汁をこぼして誰かに迷惑をかけてはいけない」と我慢している。この避難所に視覚障害者は大西さん一人。職員に「炊き出しも届けてほしいと頼むのは申し訳なくて」。見た目では障害者だと分からないため、「周りの人から『ズルをしている』と誤解されるかもしれない、という不安もある」。少し手伝ってくれていたボランティアの女性も今はいない。仮設住宅に申し込んだが、「引っ越すかどうか、迷っている」。新しい環境で、一人暮らしは難しい。「どうすればいいのか、誰か教えて」。先の見通せない暮らしへの不安が募る。

 大西さんの取材中、体育館の奥で人が集まりにぎわっている様子がうかがえた。行ってみると、Tシャツにジャージー姿のスポーツインストラクター、田中裕子さん(47)ら4人の女性が、お年寄りたちに体を動かす指導をしていた。田中さん自身、熊本市内で被災した。「つらいときだからこそ、生活に潤いを与えられたら」と、週3回、こうして同業の仲間と、簡単な体操を教えに来ている。体をほぐすだけでなく、明るい気持ちになってもらうことも狙っている。この日はおばあちゃんたちが大きく口を開けて、舌の出し入れの練習。表情筋を柔らかくする顔の体操だ。「変な顔」。参加者の笑い声が響いた。

 日本盲人福祉委員会(日盲委)の下、県内の眼科医らも支援に取り組んでいるという話を聞いていたので、そうした眼科医のところも訪ねた。

 出田眼科病院(熊本市中央区)は被災病院だった。同病院には約50人の入院患者がいたため、病院はすぐに食料確保の問題に直面した。しかし、心配はまもなく解消した。全国から飲料水や医療用品などの支援物資が届いたのだ。患者からも「使ってください」と寄付が届いた。病院内には災害に備えて、患者50人の3日間分として無洗米45キロ、飲料水460リットルなどを備えていたが、いざとなると心もとない。「全国から届いた物資にどれほど救われたか」と出田隆一院長(47)が振り返った。

 病院の様子が少し落ち着いたところで、出田院長は自ら支援活動に参加することに決めた。「全国からいただいた支援のお返しに」という思いだった。日盲委のアドバイスの下、病院職員とともに、被災者の話を聞きに回った。

 出田病院の職員の一人、歩行訓練士の三浦久美さん(37)は、この支援活動を終え、こう話してくれた。「やったことといえば、被災者の話を聞くだけ。何かできた、と誇る気持ちはありません」。そして続けた。「でもやってよかった。一番の収穫はたくさんの視覚障害者と出会えたことです」。三浦さんは、震災直前に神戸から熊本に引っ越してきたばかりだった。「熊本に来てよかった」と笑った。

http://mainichi.jp/articles/20160616/ddw/090/040/018000c

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