<取り残されて 熊本地震の被災障害者> (上)車いす 公園で震えた一夜
(東京新聞 2016年10月14日)
熊本地震は十四日、発生から半年を迎えた。避難先で体調を崩すなどした「震災関連死」を含めて百十人が亡くなった熊本県の被災地では犠牲者を改めて追悼、復興への誓いを新たにした。
二度の震度7に襲われた益城町(ましきまち)。唯一残った避難所の体育館では、住民ら約百人が節目の朝を迎えた。
家族五人で生活している紫垣邦俊さん(72)は、町内にある「みなし仮設住宅」への入居が決まった。避難生活が続くとの気持ちに変わりはないが「毎日生活に追われ、半年はあっという間。ようやく今後を考えようと思い始めた」という。
益城町文化会館では追悼法要が営まれ、参列者ら約百人が手を合わせた。
「一体どこに行けばいいのだろう」。熊本地震で二度目の震度7の「本震」が発生した四月十六日未明、熊本市中央区の植田洋平さん(26)は自宅近くの公園で電動車いすに座ったまま途方に暮れていた。停電で辺りは暗く、寒い。
植田さんは、筋力低下がみられる難病の先天性ミオパチー患者。ベッドに横になった直後、地震に襲われた。「また大きな揺れが来るかもしれない。危険だ」と判断、一緒にいた妹と家を出た。
近くの体育館に入る気はなかった。十四日夜に起きた最初の地震の際、人でごった返し、車いすで過ごせる状態ではなかったからだ。
明け方近くまで過ごした公園には、車いすが入れるトイレもなかった。首を固定する装具を外して家を出たため、車いすの操作にも不自由した。「僕はまだ良い方。人工呼吸器を使う重度障害者は『このまま死ぬしかないのか』と自宅で震えていた」
下肢の障害で車いすを使う熊本市議の村上博さん(66)も近くの熊本大(中央区)の体育館がいっぱいで入れなかった。見ず知らずの男性が車で近くの高齢者福祉施設に送ってくれ、施設側もおにぎりを配るなど何かと気に掛けてくれた。しかし住民が次々と来て、寝るスペースはない。ロビーで車いすに座り丸一日過ごした。足はむくみ、体は悲鳴を上げていた。
二人が最終的に駆け込んだのは、社会福祉学部があり、障害者と交流する教職員や学生が多くいる熊本学園大(中央区)だった。
教室などに住民七百人以上が避難したが、次々と訪れる障害者に大学は受け入れを決断。十六日午後、多目的トイレが三カ所あるホールを避難所とし、被災した体育館からマットを入れ寝床を作った。トイレの水は学生がプールから運んだ。重度を含む障害者ら介助が必要な人たち約六十人がホールを埋めた。
数日間は教職員や学生、地元のヘルパーら二十~三十人が付き添った。県外のヘルパーも応援に駆け付け、運営は五月二十八日まで続いた。
熊本市は地震前、福祉施設百七十六カ所と協定を結び、障害者や高齢者ら介助が必要な人を受け入れる「福祉避難所」の指定をしていた。想定では約千七百人を受け入れる予定だったが避難してきた住民が殺到し、介護スタッフや物資も不足。十六日時点では十九施設で七十六人しか入れなかった。
熊本学園大で運営を統括した花田昌宣(まさのり)教授(64)は「障害者は普段、地域社会の中で暮らしているのに震災になったら地域の避難所で対応できないということ自体おかしい。社会の在り方が問われる問題だ」と訴える。
◇
熊本地震の発生から半年。避難所に入れなかったり、仮設住宅の不自由な生活に直面したりしている障害者たちが声を上げている。被災地の障害者を取り巻く現状と課題を報告する。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201610/CK2016101402000280.html